皆さんこんにちは!
いかに生きるかとは、何か。人生、二度なし。「いかに生きるか」を考えることはその先に誰にでも必ず訪れる「死」を考えることでもある。
中国の文学者の魯迅は、「私は、一つの終点だけを確実に知っている。それは、墓である。しかし、それは誰でも知っていることだから、道案内はいらないだろう。問題は、ここからそこへ行く道である。もちろん、道は一筋ではない。」という言葉を残している。
誰にでも死は、必ず訪れる。誰もがそれを理解はしていることであろう。しかし、必ず訪れる死をきちんと把握して、日々、瞬間、瞬間を精一杯生きているであろうか。
日々の忙しさの中で、唯一度の人生をどう生きるかの大切さを忘れてはいないだろうか。忙しさの中で唯仕事をして生きているだけでは、何の人生なのか。その忙しさから解放され多くの時間を持った時、何か心のむなしさを感じることになるのではないだろうか。
人には、それぞれ天が与えた「命」と「使命」がある。その使命とは何かを把握し、それに邁進する。使命を持って日々を精一杯生きて行けば、どんなに多忙であっても、そして、その多忙から解放されても、むなしさを感じることなく充実した人生を送ることが出来ることであろう。
人それぞれの使命、その根底にはみんなが幸せになれることを願う心が欲しいものと思う。
2005年11月5日、約10年連れそった妻が5年の闘病生活の後、がんで46歳の生涯を閉じた。いのちのはかなさ、天の無情さを感じた。
妻が亡くなった数ヶ月後、結婚式を司っていただいた牧師様から手紙をいただいた。その中に、次の言葉が書かれていた。
「市村様、聖書、特に新約聖書では、生命(命)という言葉が2つの意味で用いられています。
長さ・量と質・内容です。人は、与えられた時があります。きっと奥様は、神様から与えられた時を精一杯、そして一所懸命愛して生きたと思います。
市村様との出会い、結婚、死、すべてが神様から与えられた時、それ故にこそ市村様の心の中で永遠に命を与えられ生き続けるものと信じます。
どうか、少しずつ前を向いてゆっくりゆっくり歩み出して下さい。
中略
悲しみ、苦しい時、我慢せず泣くことです。私も54年の人生、泣くことが多かった気がします。でも夕となり朝となったと旧約聖書にあるように朝の来ない夜はありません。暗闇は、光に勝てなかったとあります。」
私は、牧師様からの手紙を、涙を流しながら読んでいた。そして、悲嘆の中にあってどれだけ励まされ支えられたか計り知れない。
「我が人生に悔いなし」「どんなに苦しくても、悲しくても『生きる』という決断をすることの大切さ。」を悟った瞬間であった。
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